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コラム COLUMN

理事長コラム

鬼と天女

三保松原薪能

 

横浜能楽堂で、能狂言 『鬼滅の刃』を観ました。全国展開して35回目の大千秋楽でしたが、伝統芸能の将来に大きな光を当てるものでした。

成功の要因のひとつは、漫画、アニメで一世を風靡したオリジナルの知名度の高さと、シテ方の大槻文蔵さんと狂言の野村萬斎さんの見事な舞台、加えて両方の息子さんとの共演という話題性もあったでしょう。しかしその裏には、能の高いクオリティーを維持しつつ、エンタメの要素をふんだんに取り入れるという、言うに易しく行うに難い萬斎さんの絶妙な演出があったと思います。

 

もうひとつ重要な要素があるとすれば、それは「鬼」というテーマが能に極めてふさわしいものだったということでしょう。日本人にとって鬼とは、西洋の悪魔やゾンビと違い、徹底的な悪者ではなく、人間が、戦や恋など、自己の存在をかけた営みで受けた苦しみや恨みゆえに変身してしまったものだからです(馬場あき子先生の『鬼の研究』はこのことを説いた名著です)。能 『頼政』 の源頼政、『葵上』 の六条御息所や、『道成寺』の清姫などには、恐ろしさの蔭にある哀れさが滲み出ます。

 

「鬼滅」の鬼たちも、元は人間でした。だからこそ情をもち(「鬼の目にも涙」)、滅法強いくせに人間性を捨てきれぬ弱さをそなえた哀れな存在なのです。それは言い換えれば、誰の心の奥にも「悪」が潜んでいるから、それをどのようにコントロールするかが生きる上で大切なことなのだという思想が日本人の中にあるということかも知れません。

 

いや疑ひは 人間にあり

天に偽りなきものを

 

それからわずか一週間後、月夜の三保の松原で観た薪能 『羽衣』 の一節です。天女の舞を舞う代わりに羽衣を返すという交渉が成立したあと、天女が、舞うには羽衣が必要だから先に返して欲しいと言うのに対して、漁師白龍(はくりょう)が、先に返したら約束の舞を舞わずに天に帰ってしまうから駄目だと拒否します。そこで天女が口にするのがこのセリフ(他人を疑うのは人間だけ、天には嘘というものはありません)です。白龍は「あら恥ずかしや」といって衣を先に返します。天女は約束通り舞を舞って天に帰ります。

 

 

このやりとりは自然界で人間だけが嘘をつくという現実を、まざまざと突きつけます(フランスのダンサーであるエレーヌ・ジュグラリスがこの曲に惚れ込んだ理由は、この下りにあるのではないかと私は思っています)。「嘘」は「悪」の代表です。自己の狭い欲望追求のために他人を誑かすのですから。最近のフェイクニュースの氾濫は、テクノロジーが人間の心の中の悪の出番を作っているからともいえます。

 

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この2つの能を観て思ったことは、日本人は人間には100%の善人も、100%の悪人もいない。人の心には誰しも「善」と「悪」が併存し(天女と鬼が同居し)、常に戦っているのだと見ているということです。それが悪をなしてしまった者への寛容さや哀れみ(「盗人にも三分の理」)にもつながっているように思います。親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(歎異抄)とか、芥川龍之介の 『くもの糸』 に出てくる、地獄の極悪人を救うために蜘蛛の糸を垂らしたお釈迦様も、こうした思想に根差していると思います。

 

秋がまたやってきました。自然は猛暑からわれわれを解放し、中秋の名月を見せてくれました。心に沁みる寂しさも始まります。季節はいつもの通り巡ってきます。自然は嘘をつきません。でも異常気象をもたらしている人間の自然破壊が極限まで来ているということだけは、自然の「嘘」であってほしいです。

 

三保松原薪能

 

 

 

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