コラム COLUMN
文明と自然
新しい年を迎えるたびに、ひとは気分を一新し、新たな希望を抱き、その実現に向けた努力の決意をしてきました。それを当たり前のように促してきたのが除夜の鐘、着物を着ての初詣、元旦のおせち料理、お屠蘇、書初め、その夜に見る「初夢」、手元にどっさり届く年賀状の束、家族や友達と遊ぶカルタ取りや羽根つき、七草がゆ、そして成人式でした。
一年の中で、これほど年中行事が短期間に集中している時期はありません。日本人にとって年が変わるということは、単に地球が太陽のまわりを一周したという物理現象ではなく、非常に重要な意味をもっていたのです。季節の変わり目に神さまに感謝し、願を掛け、先祖を敬い、家族の絆を確認し、健康に気を遣い、ご近所やお世話になった方々への感謝の気持ちを再確認し、自らの嗜みを深めることで、社会における自分の位置を確かめ、気力を充実させてきたのです。
時代の流れとともに、こうした行事やしきたりが簡素化されてきたこと自体は止むをえないことです。しかし現代のライフスタイルの変化やデジタル化の進展、そしてコロナ対策としての三密回避などさまざまな制約は、その傾向をあまりに加速させています。
年末年始はスキー、除夜の鐘はテレビで、着物は着るとしてもアクリル製のレンタルで、おせちや七草がゆはコンビニで買い、新年のあいさつはメールやLINEで済ませ、カルタや羽根つきよりゲーム器で楽しむことが普通になりました。神さまとの触れ合いがあるとしても、感謝を省いて願を掛けるだけ。そのうちお賽銭もカードで払うようになり、あの「ちゃりん」という音の響きは記憶から消えていくのでしょう。
時代の流れは誰も変えることはできません。しかし流れをつくるのは人間です。それも偉大な発明家や政治家が決めるのではなく、ひとりひとりの毎日の言動が積み重なって、組織や社会を変え、それが時代の流れをつくり、みなそれに合わせざるを得なくなるのです。
新年のライフスタイルが変わっていく中で、日本人としてたったひとつだけ守り続けて欲しいことがあります。それは前回のこのコラム(「鴫立沢」)で述べた自然を敬愛し、仲間と考える習慣です。
年末に松飾りをつけ、玄関前を掃除し、手書きで干支のついた年賀状を書いて投函し、自然素材で仕立てた着物を着て神社を訪れ、破魔矢を買い、神に感謝し、母親が栄養バランスと日持ちを考えて精鍛込めてつくったおせちを食べ、正月休みはそれによって母親を休ませて日頃の恩に感謝し、家に代々伝わるお雑煮を食べ、七草がゆという先人の知恵で胃袋を整え、おばあちゃんの着物を仕立て直して成人式で着る。。。
自然を相手にするということは、合理性と効率性、経済性を重んじる世の中では「無駄」とされてしまうかも知れません。しかし「いのち」とは合理的、効率的な実体あるものではなく、科学では捉え切れないあいまいな「流れ」であることは、前回(「鴫立沢」)や1年前のこのコラム(「生きることは変わるということ」)で述べた通りです。
昨年は気候変動、ウクライナ問題に端を発する国際関係や理念体系の揺らぎ、新型コロナウイルス感染症の流行など、終息の見えない問題を抱えたままの出発となりました。しかしそうした問題の底流には、自然や生命をどのように見て文明を適切に制御できるかという、人類に与えられた最大の課題が横たわっています。
目先の成果や評価に捕らわれず、この課題に真摯に取り組むことが現在求められている最も重要なことです。そしてそれはひとりひとりの毎日の心がけにあるのだという自覚をもつことは、新年に当たって日本人が最も得意とすることではないでしょうか。
公益財団法人横浜市芸術文化振興財団
理事長 近藤誠一