コラム COLUMN
沈黙の春
また春が巡ってきました。
春の陽光、木々の新芽や蕾。新学期を控えた子供の頃のわくわく感がよみがえります。
でも心から楽しめません。3年目に入り、日常に深く入り込んだコロナ禍の波、そして連日のウクライナからの悲惨な映像。。。
しかしそれだけではありません。木々が嬉しそうに風に揺らいでいるだけで、あまりに静かなのです。TVの娯楽番組の嬌声や工事現場の騒音ばかりが聞こえてきますが、何かが足りないのです。
それは。。。
小鳥たちの声と、虫たちの音にならない「ざわめき」です。
レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で世に発した鋭い警告は、60年経ったいま、まさに現実になりつつあります。
人間が発達させてきた叡智の集積である学問は、いろいろなことを教えてくれました。自然が命を育む摂理。人間にまとわりつく権力と富への執着と、それに対抗しようとする善意や倫理観との葛藤。人間社会を動かす民族の情動(アイデンティティーの源としての誇りと恨み)とそれを統制しようと試みてきた理念体系の興亡。
世に傲慢さと物欲は絶えません。
「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」(石川五右衛門辞世の句)
「奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし」(『平家物語』)
「千里塔長棚 没有個不散的莚席」 「千里に小屋掛けし、宴もいつか果つる」(『紅楼夢』)
アダムとイヴが禁断の木の実を食べて楽園を追放された話(「創世記」)や「ノアの箱舟」など聖書にも多くの説話が書かれています。古今東西で、さまざまな反省と警告がなされてきました。
それにも拘わらず自分の欲望に勝てない人間の弱さと脆さが、いまや自然の生態系を後戻りできないぎりぎりのところまで破壊しています。そして世界を戦争によって絶滅の危機に陥れる独裁者はあとを絶ちません。レイチェル・カーソンも、問題を直視して何とかしなければならないことが分かっているのに、「わざと反対側ばかり通って、何も見ようとしない」司祭とレビ人(「ルカによる福音書第10章31‐32節」に例えています(『沈黙の春』 p。117)。
何とかならないでしょうか。
思い切った、とんでもない発想の転換が必要なのかも知れません。そしてデジタル技術の進歩がそれを後押ししてくれるかも知れません。
人間が止められない権力と欲望の追求は、自分でつくったサイバー空間で行い、この地球は鳥や虫、植物たちに残してあげられないものでしょうか。海外旅行を止めて、VRで行った気分になる。音楽鑑賞も美術鑑賞も同様、行かずして現場の感覚が得られる。XRやメタバースで仕事をするなど。そうすれば自動車や飛行機など無くて済むし、会社の建物もいらなくなるでしょう。大量の地下資源やエネルギーは使わずに済みます。戦争だってメタバースでやれば自然を傷つけることはありません。
音楽は演奏者の息吹や空気の振動を肌で感じられる生でなければ、聴いたことにならないなどの反論が出るでしょう。でも技術の発達が相当程度解決してくれるかも知れません。
それでは人間性が失われるという不満が残るでしょう。でもそれは虫や小鳥たちを守るために我慢しなければならないと割り切ることはできないでしょうか。人間性とは人間にとって何より大切な原点だと思われていますが、それは人間の「思い込み」に過ぎないのではないでしょうか。自然も神も評価していない、「自己満足」でないという保証はあるでしょうか。
公益財団法人横浜市芸術文化振興財団
理事長 近藤誠一